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第 二 章  4 / 6 

< 戦争、戦争、また戦争! >



< 戦争の記述、心得て頂きたい、前提 >


人体解剖実習は、五人一組である。
広い解剖専用、実習室には、二十四体の御遺体が配置され、九月から十一月

末までの六十回。終る頃は、かなり寒い。実習の性格上、暖房を使えない。
年寄りのワシには、応えた(こたえた)。


ワシは実習室の中を歩き、王子さま、王女さまの数を、数えた。
全体七名。 これら王族、誰にもやらせず、触らせず、一人で実習だ。 

だから、これから書くA子は、ある意味、運が悪い。 読者諸君は、A子が
七人の中の一人である事。 一つのサンプルに過ぎぬ事。 了解願いたい。


彼らと一緒に実習して、判るのは、誰にも触らせず実習するA子、排除し
たら平等になるか? と言うと、これが、ならんのだ。 A子を排除する
と、B子がすぐに、A子になる。 B子を排除しても、C子がA子に成る。


つまり皆が、A子なんだ。 これを限(きり)が無い、と言う。 何か


この子らには、言葉にならぬ、電圧の差の如き、順列が、有るらしい。

一番電圧の高い子、当然の如く、一人で実習する。その他の子、見学だ。
押しの強さで、順位が決まる。 一番押しの強い者、王様に成る。


問題は、ここから始まる。 解剖実習、

ワシには電圧も、押しの強さも、意味を成さぬ。 オマエ一人が、何の
資格で、悦に入っとるんじゃ? と考える。 これは、若い学生から見ると、
秩序を無視した、とんでも無い、場ハズレ者と写る。


ワシが六年間、繰り返し主張した、実習は平等に、分担して行うべし!

の叫び。空しい(むなしい)のだ。 だけど、だからと言って一人の女の子
誰にも触らせず、一人で実習する姿。 正しいと、言えるか?


争いを起こさない方法は、簡単だ。 電圧、押しの強さ、わたしが、
一番だと思う子の、言うまま、するがままを認めれば、問題は起こらない。

ワシ、四年次の薬理の実習では、そのようにした。 その時のA子、本物の
女王さまだった。 実習の途中、トイレへ行く。胸はって、腕を振って
悠然と行く。 この間、他の学生、手を出さない。 待っておる。


A子、おしっこ済ませ、悠然とお帰りだ。 A子、メス取って、実習の再開。

このテイタラク、想像できるか? 馬鹿馬鹿しくて、お話に成ら無い。
ハラワタは煮え、血圧は上昇し、もう一回、戦争してやろうか、と考えた。

あんましだったんで途中、 オイッ!そろそろ選手交代しろと、言ったのだ。

するとだ。B子、目に涙を浮かべ、このままA子さんに、やらせて上げて!
だとよ。


このB子である。同じ薬理の、別の実習で同じ組。
A子が居ないんで、やれやれ、今日はウサギには触れるかと、思う間も無く、
B子が、王女さま気取り。 一人でご満悦。 誰にも触らせない。

三人一組だったので、ワシと、もう一人の男の子、見学だあ!
見学も半日は、辛い(つらい)。 いくら何でも、もう良かろう。
A子が、席外したスキ、


男の子、久治良さん、ウサギの耳に、麻酔注射して下さいよ。 言うたんで
ワシ、あいよと、返事して、注射を始めたんだ。 そこへB子、ご帰還。


な、何と!糞ジジイと小男が、わたしの大事な実習を、勝手に横取りしてる。
この無礼者。B子、ワシの横来て、間違ってます! 止めてください!

違うと言ってます! やり方が、滅茶苦茶です!止めて!止めて! わたし
がします! と、すごい悲鳴、上げるのよ。


処が糞(くそ)ジジイ、いっかな動こうとせん。彼女の叫び、効果無し。

すると彼女、身を翻して(ひるがえして)先生を呼んで来た。 先生の
身体をグイグイ押して、糞ジジイを押し出し、実習を止めさせた。


実はワシ、上手く行かなくて困っていた。先生のアシストして、麻酔注射
完了。 この一件、若い連中の感覚、表現されてると、思わない?

ちなみに、この時の先生、のち、岐阜県の朝日大学へ行かれた、薬理学の
柏俣(かしまた)教授、その方である。


こんな具合に、王女さまを排除しても、あかんのだ。問題、解決しない。

学生の三分の一が、潜在的に王女さま、王子さまだから、Aを取ればB,
Bを取ればC、Cを取ればDと言う奴で、際限が無い。

柏俣先生に助けてもらった後、ワシ、腹が立ったから、麻酔注射をして来れ
と言うた男の子に、噛み付いてしまった。彼の責任、有る筈も無い。良い迷
惑だった。


これを見てワシ、日本は、ネンネの国とは、成ったりけり! と、思ったよ。


面白いのは、A子とA子。王女さま同士、一緒にすると、チャント、押しの
強い方、一人で実習。 押しの弱い方、一日ご見学。

この景色、まるで、高崎山のサルだぜ。
日本は、いつから、こんな国に成ったのだろう?


ですから皆さん、今の学生は、こんなものだ。と言う事を了解の上で、ワシの
これからの文章、読んでもらいたい。

話題を一つ挿入した後、戦争を書く。



< 十八歳で百キロ超? 巨大なる息子たち >


大学の同期には、百キロ超えが、何人か居た。

卒業して、歯科医師になって、百キロ超えと、三回出会った。
二人は、先生(女)の息子。 一人、アシストの息子。 高校生だぜ!

ある先生、ワシに言ったのよ。 ウチの息子、首周り、45センチよ。
ワイシャツ探すの、苦労したわ。 ハワイまで行って、買って来たのよ。
靴は、両国、国技館だとさ。


息子が百キロ超だと、着る物、履く物、何もかも、特大サイズに成る。
貧乏人にはこんな息子、飼う事、出来ません。 金持ちの道楽です。

見てると、この三名、同じように、ベッドの足元、テレビ置いて、
寝ころがってポテトチップス、口に運びつつ、変な声でケラケラ笑っとる。
部屋の棚、ガンダムの人形とマンガ。 外車と戦闘機の、小さい模型。


本、参考書のたぐい、まず無い。 テレビ見ない時は、ウオークマン耳に
漫画の本。 身体、リズム取っておる。 手の届く所、ジュースにせんべい。

駄菓子の切れる間、ほとんど無し。 間食と三度の食事、連続しとる。
わきの下、赤ちゃんの頭くらいの脂肪。 あれが筋肉なら、値打ち物だが。


 *     *     *


若い内から、これくらい太ると、五十歳までは、何とか健康でも、
それ以後、色々と、苦しむぞ。 長生き、絶対にせん! 心臓、脂肪で、

ベタベタだ。 脂肪による心(しん)タンポナーゼだ。 つまり心臓が
脂肪で、圧迫されてる状態。


十八歳だぜ。ちょっと間違ってるぜ。丸椅子に腰掛けてる所、後ろから見ると
でかい尻、はみ出しておる。 巨大なる胴周り、脂肪が波、打っとらあ。
あのワイシャツ、幾らするのかな? 途轍も(とてつ)も無く、でかいぜ。


こんな具合に、日本の母親、経済に余裕が出ると、息子、猫可愛がり。
美味しい物、無限大に与え、極限まで大きくする。 良い事してると彼女達
思う。 取り返しの付かない点まで行って、まだ判らない。

日本人、この辺の見識、どうも弱い。 ここでも又、金持ち三代続かずを、
実行しておる。 言っても理解せん処が、すなわち、抜けられない証拠だ。


 *     *     *


< 女性の歯科医師は、少子化に貢献する >


ワシ卒業して五年、女の先生七名と、仕事した。
未婚(三十七)一名。他は既婚なれど、一名(三十二)子供、まだ造らない。

この先生、学生結婚だから、すでに、九年が経っている。 子供? ううん、
どう仕様かな? と、考えてる所。


ちなみに未婚の先生。仕事が、面白ろうて、面白ろうて、
結婚どころじゃ無い! そうだ。

でも先生、三十七ですぜ。 三十七? まだ若い、若い!


残り五名の先生方、お子さん、全て一人。うち二人、高校で体重、百キロ超。
ワシ、それとなく偵察して、いずれも過保護。 部屋に勉強道具、全く無い。

教科書、どこに有るの? 教科書?
学校のロッカーに、入れてあります。


そう言えば大学でも、教科書、ノート、すべてロッカーが、居た。
リック式のカバンで通学しても、カバン、ペチャンコ。

中味、マンガと飲み物。 ノートも筆記用具も、入れて無い。
都内から通学の学生、片道二時間だ。往復四時間。 何してんだ?


二十九期には、結婚した者、二名居た。 いずれも子供、造らず。

卒後五年、子供の出来た話、まだ耳にせん。 造らんのか? 造れんのか?
歯学部、こんな具合に、よくよく少子化だ。

歯科医師しとる女の先生、ワシの知る範囲、皆さん、子供一人。 あれ、
故意に造らんのかね?


< 明海大歯学部、解剖実習戦記 >


時岡教授で、あった。 先生は既に、この世の人ではない。
人生に二度、大病をされ、三度目の病気で逝かれた。享年七十一歳。

我らの実習の前年が、二度目の大病の時で、ワシ、この一件にて、多大なる
心配、掛けてしまったかも。 これ師匠不幸か?


人体解剖実習は、夏休み明け、九月から十一月末までの、三ヶ月。

90コマの、長丁場。 学生が歯科医師を自覚する、大事な、ステップだ。
献体して下さった皆様に、まずは合掌す。


実習の始め、教授の訓戒と相場、決まってる。 のち、マトメて書く。
ワシの組、女の子三人、男はワシともう一人。 戦争は最初から、
始まっていた。 

A子、ご遺体の頭部に座る。B子とC子、肩のところ、左右に座る。

歯学部と医学部の、一番の違い。 医学部は全身。歯学部は極端に言うと、
胸から上で、良いわけだ。 これを知れば女の子、良い処、独占だった。


解剖の最初は、皮むきから。 ご遺体は、うつ伏せである。 皮むき、
頭部の皮が、メインである。 頚部(けいぶ)と肩が、此れに次ぐ。

半日が過ぎた。 女の子三人、楽しそうにお喋りしながら、同じ場所。


君たち悪いけど、ワシらも頭部したいから、替わってくれない?
脚の皮むきに飽きたので、ワシ言った。 A子、顔ゆがめ、憎々しげな
声、わたし、ここするの。 ここすると、わたし決めたの。

半日、君一人で頭部だから、そろそろ替わるべきじゃ、無いの?
A子、いよいよ顔ゆがめ、わたし、ここするの、動くのいやなの。

幼稚園のネンネが、ボールを離さない時、ボールを取る道は、暴力しか
無い。 如何(どう)したもんかな? と考えてワシ、諦めた。


現代は、イジメの時代だ。ワシの行き方、良くないね。
女の子三人、意識してハシャグ、サンザメク。 そこへ応援の先生だ。

歯学博士号を取る為に、研究生なるコースを取る。 毎週一回、大学へ来る。
学生の面倒を見る。 七年間、勤労奉仕すると、博士号が貰える。


だけど、この先生、担当の場所が違うのだ。 よって、辺り、キョロキョロ。

見つからん様に、女の子たちの会話に参加。 話題、一気に盛り上がり、
お祭り騒ぎだ。 いわゆる、ワーワーキャーキャーの世界。 聞いてると、



池袋の駅前のパーラーで食べたアイスクリームが、どうの、こうのと言う、
他愛も無い中身。 だけど今どきの、女の子の会話だから、パンチ利いて、
心ウキウキする、いきな会話なんだが、場所が場所だろ。

ご遺体前に、ふざけんな! と昔の人間、思ってしまう。 ワシこの時、
止せば良いのに、質問、先生ここ、どう解剖すれば良いのですか? 
その時、先生がワシに向けた顔。 死ぬまで忘れない。


不愉快の極限、顔、歪(ゆが)ませて、とは、こんなのを言うのだ。
ワシ、会話の邪魔してスンマセン。 結構ですと言い、場外へ逃れた。


 *     *     *


さあ、こうなると最悪。ワシが何かすると、女の子三人、ダメーッ!止めて
っ! キャーッ!そうじゃ無いでしょっ! と大変だ。イジメ世代なら、
へこたれる。 ワシは、逆でね。

アハハハハッと、笑っとんのよ。 ここで負けると、自殺じゃけんに。
ワシ、いよいよ面白がって、なに言ってるんだ! そこはこうだ。
バカ野郎、こんなんが判らんのか! てな調子だから、いじめ、形無し。


解剖は、メスで行う。 切れなくなれば、交換する。
ワシ、棚へ行って交換して、元の場所へ帰って見ると、な何だ!この野郎!
ワシの場所(脚の所だぜ)に、A子が来て、塞いでおるでは、ないか!

A子は頭部だ、ワシ空席になった頭部に座り、皮むきの開始。これ逆転の発想。
B子とC子、ギョッとして、身をそらす。 A子すぐ帰って来て、そこワタシの
場所です。 何に言ってやんでえ。 テメーは、脚の方へ替わったんだろ?


テメーだなんて、そんな汚い言葉を言う人は、嫌いです。スミマセンと
謝りなさい。 それじゃあ半日、頭部に座って動かないのは、良いのか?

わたし、頭をしようと決めたから、良いんです。
ホウ、そうか? ワシも頭と決めたんだ。決めたから良いんだ。


こんなやり取り、活劇としては面白いが、解剖に、成らぬ。

一時間、頭部の皮むきをして、も一人の男の子と交代した積りだったが、
男の子、ビビッちゃって結局、またA子の世界。

休息時間にコーヒー飲んで、さて又、脚の皮むきかと、ため息ついて作業
してると、メスが切れない。 交換だ。 交換して帰ると、何てこった!


ワシの場所に、またA子だ。頭部を見ると男の子、座らされておる。
ワシ、気を取り直し、身体をスーッとA子の横に滑らせ、気合一閃、テヤーッ
とばかり、腰でA子を、二メートルばか、吹き飛ばしてやった。

A子、照れ笑い浮かべつつ、頭部へ帰った。 どいてっ! 男の子、追い払わ
れた。 この時だ。 B子、呟いた(つぶやいた)。


メス持ってる時、そんな事しては、いけないんだがナー。 何ぬう、それじゃ
あ、人の場所、塞ぐのは良いのか? B子、返事なし。


ここは、勝負どころだ。 ワシ、脚から腰へ、腰から背中へ、背中から肩へ
位置を変えつつ、女の子に圧迫。 堪らずC子、反対側のB子の後ろへ避難。

かくの如くして、背中から肩、首に至るまで、皮むきが出来たのだが、お
分かりの様に、あんま、良い作戦でも、無いわなあ。


ここで気晴らし。 解剖実習室、一巡して見る。 ワシの組のA子の如き、
何人も居るではないか。 ぼんやりしとる君、解剖、せんのか? ダメ
なんです。ボク等の組、見て下さい。


あの子、誰にも触らせず、一人で解剖でしょ。 ボクらが手を出すと、機嫌
じゃないんです。

フウム、なるほどね、彼の組のA子、自分の身体、ご遺体に被せる(かぶせ
る)様にして、一人で解剖している。 他(ほか)の子、うしろで不愉快な
顔で見学だ。 ワシがこの組だったら、どう成っていただろう?


 *     *     *


ある組の男の子、怒りを露わにして、ワシに言った。
あいつを、ぶん殴ってやりたい。 お前これしろ。 お前は、ここだ。
自分を何様(なにさま)だと、思ってるんだ!

ボクとあの子、気が合わないんです。 だからボクには、何もさせない。
今日、殴ってやろうか、明日殴ろうかと、毎日ハラワタが、煮え返ってる
んです。


ワシが仮に、この組なら、どう成ってたか?


次の組の男の子。 ボクねえ、あいつに、あっち行けって言われて、彷徨っ
て(さまよって)ます。 ハハハハッ! この子、大物に成るかも。 ワシ
が、そんな事、言われたら、血を、見るかも。

も一つ書く。ある組だ。 男の子一人、頭蓋骨、小脇に抱え、ご解剖。
残りの学生四名。 (男の子三名、女の子一名)後方で悄然(しょうぜん)
と、見て居る。


その風景、何か、可愛そう。 女の子、成績優秀者。 後に、この件を、
話した。


あの男の子、一人で解剖だったな。 ウウン、本当に。
何か言わなかったの?  言っても無駄!  かも知れんなあ。

幼稚園のネンネと、同じだ。 仕方ないわ、今は皆んな、これだもの。


読者諸君、かくの如しだ。 見ての通り、問題起こしたのは五十一歳、
ワシ一人だ。 残り、大人しく、諦めて見学。 良い年こいて、大人気
(おとなげ)無いと言われれば、まさに、その通りだ。 大人気無い。

しかし三ヶ月間、見学しろと言うのも、これまた、承諾し難い。
解剖実習室、ご遺体二十四。 分担して仲良く解剖の組も、有った。
カリフォルニアの組など、見事な分担解剖。 羨ましかった。


 *     *     *


明海大歯学部の学生諸君よ。 解剖実習において、かくの如き、ネンネが
居れば、その者の名前を明記し、ワシ宛て、通知せよ。 解剖学の教授を
通じ、抗議する。 改善が無ければ、歯学部長まで行く。

それでも改善されなければ、学長、理事長まで行く。
恥ずかしいと思え! ネンネじゃあるまいに。誰にも触らせず、自分一人で
解剖なんて、そんな学生、歯学部へ来るな!


医療倫理を、やり直せ! 恥を、知れ! 恥を!

日本は、ネンネの国か? ネンネの歯医者、作って、どうする?


解剖実習だけでは無い。 共同作業の有る、全ての実習。 ネンネを見たら、
指導の先生、次の者と、替われ! 言わな、あかん。 こんな見識も無いん
か? ネンネを自由にしては、いかんぞな、もし!


  *      *     *


先ほど登場した、歯学博士狙いの先生とは、半年後の組織学、顕微鏡実習で、
またも、お会いした。 出席を取ると、B子達と大騒ぎ。 A子では無い。

A子は押しが強いだけ、仲間の中心はB子だ。 C子はB子の親友。六年間、
シャム双生児の様に、くっ付いていた。


博士号の先生、実習中だぜ。 うるさいぞ。 するとだ、世の中には偉い
奴が、居るもんだ。 一人の男の子、この先生に言ったのだ。

先生は大学へ、何しに来てるんですか?
先生、とっさに意味、解しかね、しばしポカンとして居たが、意味、判ると

顔色を変え、お前達を、教えに来てるんじゃないか! 怒りを滲ませて叫ん
だ。


実習室の床、冷たい笑いが、流れた。 女の子、押し殺した声で、
あの先生、B子さんが好きなのよ! 実習室は、嫌な空気、充満した。

この先生、何の用か知らんが、我等の六年次、大講義室へふらり、入って来
た。 するとだ、学生の中、笑い出す者が出た。 笑いは、だんだんに大き
くなった。 遂には講義室、ワハ八、ワハ八ッ! 大変な騒ぎに成った。


先生、参ったなと言う顔で、講義室、出て行った。 ワシは彼の、解剖実習
で見た、あの、不愉快極まりない表情を、思い出した。


開業医が、自分の病院を閉めて、博士号目当てに、大学へ来るのである。
大学では学生を、指導するのである。 最低限のモラル、求められる。


 *     *     *


夕方が来て、実習は終わった。

こんな生活、三ヶ月間、続けるのか? 堪らんな。何か良い方法は無いのか?
ワシは、考えた。 ご遺体を半分に斬る。 右を女の子三人で、解剖する。

左側半分は、男二人だ。 このアイデア、不都合、有るかな? ワシはまず、
もう一人の男の子に話して、考えを伝えた。 彼いわく、喧嘩なんかせずに、

仲良くしましょうよ。 ではどうすれば良いのだ? 見学は嫌だぜ。
ですから仲良くして。


どうすれば、仲良く成る? あの子の好きなままか? 女の子に全権を渡せば
問題は起こらない。 しかしそれ、こっちが良いようにされる事だぜ。

ワシ、この子と相談するのを止めた。 独断専行に決めた。

先の考えを、紙に書き、B子に提示した。B子である。A子では無い。 A子は
はなし、不能の子だ。 この子と話、出来ない。 その点、B子は、話になる。
(実際は、ならなかった)。見込み違い、だった。


患者と歯科医師のトラブル。 話しにならんと言われる。 学生時代から
一部の学生、これである。 シビアな話、土台、出来んのだ。

女の子三人、団結して、自分たちに都合の良い解剖をする。 それ、おかし
いんじゃない? この相談、不能なんじゃ。 出来ないんだよ。 客観的な
議論、成立しない。


 *     *     *


ワシが、文書で提案した後の、B子の反応、興味ある。
彼女、ワシの文書、失礼な物、けしからん物と考えたらしい。 まずは医療

倫理の教授室へ行き、あのオッサンがワタシに、こんなけしからん物を渡し
た。 懲罰して欲しいと、求めたらしい。


教授、チョッと待て。 これ君らが解剖を独占して、あの人にやらせない事
の抗議じゃない。 どこが失礼なの? 君らの方が失礼じゃ無い? 書いて
ある事、正に、その通りじゃない?

これに対するB子の反応。 わたし、そんな事、聞きに来たんじゃ、ありま
せん! 教授の手から紙を奪い取り、教授室を飛び出して行った。


お分かりの様に、B子が求めたもの。 自分がして欲しい事、してくれる人。
医療倫理学の教授、それを、してくれなかったワケだ。 教授は後にワシに

言った。 私は、この大学で、女の子六百名の相談を、受けた。 しかし、
あんな子、初めてだ。 ビックリしたよ。


B子、医療倫理の教授室を飛び出して、どこへ行ったか? 解剖学、時岡教授
の部屋へ、行った。 そして又も、紙片を見せた。 教授、その紙片を、
スタッフの先生、全てに提示した。

ワシ、これが判らん。 紙片には、B子ら三人が解剖を独占して、好きな
様にしてる事を、非難しておる。 そんな物、人に見せれば、自分達の
不正、宣伝してるのと、どこが違う? 


B子、ワシが紙片を渡した事こそ、失礼な事だと、思ってるらしい。
こんな事をしたオッサン、罰して下さい! だけど、そう言われた教授、
なるほど、それは失礼だと、思うか? そんな事、何で判らんのだ?


時岡教授、判ったと、返事した、そうだ。
B子、納得して帰った。この時、C子が一緒だったかどうか? ワシは、つま
びらかにせん。 それと、この件、A子は知らないのでは? と思うのだ。


 *     *     *


今の若い人、同級生と言えど、関係無ければ、横に居ても、話せん。 伝え
るべき事、伝えんのだ。

こんな事が、有った。 ある日のスペイン語、辞書持たずに来た学生、退席
させると講師、宣言した。 その日欠席して、知らない学生に、教えなくて
はいかん。 これを、誰も教えない。


何で教えんのじゃ? 同級生やないか? 別に喧嘩してる分けでも、無いの
に。 この辺の感覚、ワシらの頃と、全く違う。 これでは要領良く儲けた
者が勝ち、と言う感覚に、なってしまう。 教授連中、これを叱らなあかん。

こんなわけで、ワシが何故(なぜ)時岡先生の組へ移動したか? おそらく
A子は、知らないと思う。 この本を読んで、そうだったのか、合点したと
思う。


 *     *     *


そんな事、水面下で進行なんて、知るわけ無いから、次の解剖実習、ワシも
流石に、決死の思いだった。 事と次第によって、ドンパチになる。 どな

り声、覚悟の上だった。 解剖道具を手に、実習室へ入った時は、武者震い
したね。


道具を棚へ並べていると、時岡教授が、来られた。 何だんねん? 君、
ボクん処へ来い! 今日から、ボクが教える。 ワシ、教授の言葉に、助か
ったと思った。 聖書の話みたいだ! とも、思った。


マタイによる福音書。 イエスは彼に言われた。 わたしに付いて来なさい。
あなたを、人間をとる漁師にして上げよう。 彼はすぐに、網を捨て、(イ

エスに)従った。 てな感じだったな。 ワシ胸を熱くして、時岡先生の後
に、付いて行ったのだ。


この人体解剖学の実習こそ、この瞬間、明海大歯学部での、ワシの最大の、
快事に成ったのだ。 ワシは、身も心も投げ打ち、燃やし切って、実習を
やり遂げた。 人生の快事、これに過ぎずの、心境だった。


思い出すだけで、胸が熱くなる。 最大、最強の想い出だ。 A子、B子、
C子、本当に有難う。 君らのお陰だ。 災いは転じて、最高の福と成った
のだ。


世の中ほんまに、何がどうなるか、判らん。 時岡教授は解剖室の、一番前
の列、右の端だ。 ここの解剖台、天井から、モニターカメラが睨んでおる。
教授の模範解剖、モニター画面に映される。

これより後、全ての解剖、ワシは先生の側で、アシストを勤めた。 楽しか
ったな。 不愉快だった気分が、一瞬に反転、毎日が楽しくて、楽しくて、
寝るのが勿体無い(もったいない)位に成ったのだ。


人間て変な動物、ですな。


ワシを追い出した後、B子は女の子三人、仲良く協力して、分担解剖出来る
と、思ったのでしょう。 ところが現実、さに有らず、なんじゃ。

A子、な何と! B子とC子に、見学させたんだ! A子一人、王女さま。
B子とC子には、触らせもせん。 そのくせA子、B子ちゃんのお友達に成ろ
うとするんだから、どんな神経しとるんか? わけが判らん。


これより、のちのB子、A子と口も利かん。 残り五年間、A子が側に来る、
B子、石の地蔵さん。 ある意味、当然でしょう。 その当然をA子、理解
せん。 一体全体、A子の感覚、どうなっとるんじゃ?


ワシが、時岡教授の組へ移籍すると、入れ代わりにA君(愛称:クロちゃん)

A子の組へ行った。 一ヵ月後、ワシ、彼に聞いた。 調子どう? クロち
ゃん、いわく、まったく何んの問題も有りません。 仲良くやってます。


ところがクロちゃん、その年、留年。(我が歯学部、なぜか毎年、きちんと
五名、留年する) 次の年、彼、言ったのよ。 久治良さん、今年、ボク、
しっかり解剖しましたよ。 思う存分、勉強しましたよ。


ワシ、何に言ってるんだ! 去年は、どうだったんだ? 仲良く解剖したと
言ったじゃないか? あれは嘘か? クロちゃん頭掻いて、去年はA子が居た
でしょ。 あの子ったら、わたしここ、するう。 わたしここ、したいい。

でしょ。 ボクら、完全に見学ですよ。 ご遺体に、触る事も出来なかった。
ひどいものでしたよ。 じゃあ去年は、嘘ついてたんだな?
ワシ、これ以来。 彼の言う事、半分信用せん。 


 *     *     *


実際、今どきの学生、うっかり信用すると、えらい目に会う。衛生学の、
レポートだった。 何枚くらい書けば良いの? ある学生に、聞いたのだ。

あっ、そんな物、二三枚で十分ですよ! エッ本当に? そんなんで良いの?
そいつは助かったぞ。


次の朝、衛生学教室の前へ、出しに行くと、様子が違う。 学生のレポート、
二十枚、三十枚、本みたいなレポートが入れてある。 ワシ青ざめた。
手遅れだ! 結果、落第!

先生、言うのよ。 ボク例年の通り、レポート十枚以下、評価しません。
落第の人、学事課へ行って、二千円出して、再試験の手続きしてからレポー
ト、も一度、出して下さい。


あの日からワシ、ワシを担いだ学生に、呪い、掛けとるんじゃが、今の所、
さっぱり利かん。 この日よりワシ、絶対に絶対に、今の若者の言う事、
うっかり信じない様に、しとる!


 *     *     *


解剖学、時岡教授の側で三ヶ月。折に触れ、解剖の場面に合わせ、色んな話
耳に出来た。 その都度、ノートした。 次の段で、その幾つかを書こう。
これは、教授の墓前に捧げる(ささげる)花である。


 *     *     *


追記、この段を読まれた諸君は、時系列が混乱しとると、感じられただろう。
その通り、わざと前後、入れ替えた。 理由、最初の原稿は、きちんと時間
に沿っていた。

それを読むとA子ひとりに、焦点が集中。 我が二十九期、誰にも触らせず、
自分一人で実習のA子、A男、七名を越えた。 書かれたA子、ワシと同じ組、
貧乏くじ引いた様なもの。


読者諸君に、もひとつ再確認、願いたい事。 ひとり実習のA子、排除しても、
効果なし。 二番目に押しの強い子、替わってA子、A太(た)に成るだけ。

つまり今の若者の半分、潜在的に王族なんじゃ。 十名の組、ひとりの女の
子、誰にも触らせず実習。 ワシには、異様な光景も、彼らには普通の、あ
りふれた風景なんじゃ!


なぜならA子が排除されれば、次に押しの強い子、同じ形(かたち)、作る
だけだもん。


ワシ、日本の幼稚園の経営者に、噛み付きたいね。 この子らの行動様式、
幼稚園で体験した行動様式の、再現なんじゃよ。 こんな世界を通過した
人間が、歯科医師に成るのだ。 患者、用心が肝要かも。

そして同時に、この中で、うらやましいくらい公正に、平等に、分担解剖
の組、幾つか有った事も、記憶して欲しい。 その組、中心的な子、やは
り大人だ。 彼らは善い歯科医師に、成るぞ!


諸君らが歯科医師を選ぶ際は、必ず、必ず、そんな歯科医師を選べ!


 *     *     *


この段の原稿見せると、変えた方が良い。 会の皆さん、異口同音にそれを
言った。 その結果が、この段だ。 故意に、前後を混乱させ、判りにく く
した。 了解されたし。



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